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I am a Singer

母親の嫌なところ、自分にもあるって、認められない時。

Facebookで投稿した記事に

 

質問が寄せられました!びっくり。

ありがとうございます。

記事読んでくださって、ご質問までくださるなんて思いもよらなかった。うれしい。

 

ご質問内容はこんな感じです。

「母親の嫌な部分が自分にもあるって認めるのって難しくないですか?

たとえば母親がヒステリックに怒る人だとして

“自分にもそういうとこある”って認めるというのは

ヒステリックに怒る自分を認めるってことですよね?

いつもヒステリックになっていいってことですか‥‥?

それは嫌だから直さなきゃ!って思っちゃいます」

とのことでした。

 

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えーと私は特別に心理学などを

学んでいないので独学です。

めちゃくちゃふつうの一般人の素人ですw

参考になるかはわからないのですが

いろいろ試してみた結果のお話です。

 

 

ヒステリックになっちゃう(もしくは、なっちゃいそう)なとき、自分にもあるわー。

うん。あるね。

 

あはは、あるねw

と認めたら

 

あははーーって笑ったら

 

そのあと

なんで自分ヒステリックになっちゃうんだろうか?っていうところまで、行けるんです。

 

ヒステリックが発動する時のシチュエーションはだいたい決まってるはずだから

その時、どんな気持ちがして

そうなるのか。

 

これがね、ヒスな自分を“嫌だ!だめ!”ってしてたら、行けないの。

 

 

悲しかった、寂しかった

 

とか。いろいろ。

(人それぞれなのかな?ここは。)

 

 

 

そうすると

あぁわたし悲しかったなー。

寂しかったなー。

それを実感するのが

めちゃくちゃ

怖かったなー。

 

だからそんな気持ちがしそうなとき

感情が

ぐわーーー!きーーー!

ってなってたなー。

 

って、ふんわり思える。

しみじみ思える。冷静に思える。

 

そうするとヒステリックになる必要が

なくなるから

そうならなくなっていくので

 

結果

《ヒステリックな自分もいるなーって認めると、そうならなくなる現象》

が起こる。んですよね。。。。

 

もちろん、慣れ親しんだ反応として

ヒステリックになっちゃうときもあるかもしれないけど

 

制御不能にはならないし

ほんとにそのうち、そういう自分いなくなります。

 

ヒステリックな自分を、よしよししたら

その奥の気持ちを話してくれますよ。

そしたらさらに

 

なんで悲しいのか?

なにが寂しいのか?

 

って

どんどん、自分とお近づきになれます^^

 

《いちばん身近な他人は自分》って

どこかで聞いた言葉(どこだっけ??)なのですが

 

その、いちばん身近な他人と仲良くなれたら

そのひとまわり遠くの他人とも

そのふたまわり遠くの他人とも

仲良くなれそうですよね^^

 

 

 

これ、理屈で知っていても

実践することでしか変わらないやーーつw

 

 

とりあえず

そんな感じでしょうかね^^

 

 

ご質問お答えしてみましたー。

ドキドキw

 

 

 

 

 

すごく少しずつだけどすごく早く。

ひさしぶりに日記でーす。

 

仕事が休みになって

保育園が登園自粛になって

そうなると生活がどうなるかと言いますと

 

 

まぁ毎日、いっっそがしいんですよ。

 

 

1歳児と暮らすというのはね、(それ以下それ以上の年齢もそうだろうけども)

 

自分のことを、自分のタイミングで完遂できる時間は、ほぼほぼないのです。

 

コーヒー飲むのも着替えもトイレもメールの返信も髪を乾かすのも

 

完遂しない生活です。

 

たいてい、たいてい

一旦中断します。

外部からの圧(子)により。

アニメが好きな年頃でもないので

起きてる間はもっぱら母(わたし)を誘って

だっこ、本読んで、遊んで、これあげる、あれちょうだい、こっちきて、あれ叩いて、あっちいって、、、(時々おもちゃ飛んできて母負傷)

です涙

 

ええ、泣かせてください。

泣きましょう。

つかれたよーーー!!

おつかれさーーーーん!!!

 

 

でもね。

 

 

毎日毎日朝から晩までずーっといっしょにいると、気がつくことがある。

 

こんなにお散歩好きになったんだな。

帽子も嫌がらずにかぶるようになったな。

意外とトマト好きか。

あ!私の顔マネをしてる!でもできてない!惜しい!

 

とかとかとか。

 

 

すごくすごく少しずつの変化を

ものすごい早さでしてるの。

 

 

(「鏡ごしに目が合うようになった」→「鏡ごしに目が合ったあと、本体は別の場所にいることに気づいた!」

とかね。)

 

 

保育園に行ってたら、見られなかった瞬間がたくさんあった。

 

わたしは産後4ヶ月で仕事に復帰したので

0歳のこの子の瞬間は、あんまり見れてなかったと思う。

 

今は、特別に見せてあげるよ!って言われてるような気がする。

 

1歳のこの子の、たくさんの瞬間を。

 

 

すっごいいそがしいけど。

ほーーんとおつかれさんだけど。

 

 

愛おしいまいにちを、もらってる。

 

 

ものすごく大変なとき、しんどいとき

反対側を見るのはちょっと時間がかかるかもしれない。

でも

かならずある。反対側が。

なくなった、と同時に

もらってる、なにかがある。

 

(わたしは、もらってばっかりなので

そろそろなにか、お返しというか

したいんだけど

返せるなにかがうまく見つからなくて

へたくそだなぁと思う。)

 

 

そんな感じです。

 

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空気清浄機を掃除中に「なんでスイッチ入れてくれないんだ!!!風を感じたいのに!!!」と、本体をバンバン叩いて絶望し泣き崩れる娘。笑っちゃいけない。彼女は真剣だ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

娘の在り方。

娘が生まれたら

私は絶対その子のことを

かわいくて優しくて幸せな女の子だっていう目で見ていきたい。

 

 

と、産前のブログで書いた記憶があります。

そうわざわざ決意したいほど

私の目は“悲しみ”を見つけるセンサーが

敏感になっていました。

もともとそういう性質なところへ

妊娠中の情緒不安定も加わって

拍車がかかっていた感じです。

 

 

 

さて

現実の娘はというと。

 

たとえば

生後5ヶ月から保育ママさんへの受託が始まり

それから約半年経ちましたが

 

ここでもし

毎朝お別れの時に泣いて泣いて、、、

 

とか、そういうのがあれば

 

ああ、ごめんね(;ω;) 

心細い思いをさせてごめんね、、、

私がひとり親なばっかりに、、、

 

って

悲しい気持ちになれそうなものを

 

一度もなしです。

泣いてお別れ、一度もなし。

今では毎朝

ママさんとお友達の顔を見ると

にぱぁ〜〜と笑います。

遊びに来たよーー♡てな感じです。

 

お迎えも

にぱぁ〜〜と笑ってお出迎えしてくれます。

帰るのー?♡うふふー♡かあちゃんすきー♡♡て感じ。

 

悲しい気持ちになるつもりの私は肩透かし。

 

 

ほかにもたとえば

 

泣いて泣いて泣き止まなくて

ずーっと抱っこしてる真夜中、、、

 

とか、そういうのがあればね

 

ああ、、、どうして泣き止まないの、、、

私って孤独、、、(;ω;)

 

って、悲しみの方へ転がっていけそうなのに

 

一度もなしです。

泣いて泣いて泣き止まないこと。

不満を訴える時は 

あーーー!

うぎーーー!

と、声を出すだけで伝わるので

泣くまでいかないし

寝つきも、寝起きもよし。

母ちゃん、朝までぐっすり!

 

とにかく

母ちゃんが悲劇のヒロインに浸ることは

娘を見ていると出来ません。

健全で幸せな気持ちにしか浸れません。

 

 

冒頭の、私の願いなんて

えなんのこと?という具合で

娘はもう本当に

どこからどう見ても

美人で可愛くて好奇心旺盛で

なんでも楽しめる

逞しい女の子のようです。

 

 

ナチュラルに

在り方で見せつけられる娘のパワー。

悲しみがちな私を

反対側へぐーんとひっぱってくれる。

母は、こんな娘と仲良くさせてもらえて

ありがたいです。

 

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選び続ける。何度でも。

理不尽に感じたり、もうどう解決したらいいのかわからないような出来事というのは起こる。

 

自分の中に生まれた感情に

自分自身が焼き尽くされそうになって

その感情の正当性を

頭の中で主張しているあいだ

苦しいのはなくならない。

 

だからといって

その正当性を言葉にして主張して

相手を言い負かしてやったとしても

やっぱり苦しいのはなくならないのだ。

 

誰の中にも

善意や優しい気持ちは必ずある。

その善意や優しい気持ちは、なにかのきっかけで出てこられなくなったりしてしまう。

自分を守るためや、自分の大事なものを守るために

誰かを傷つけてしまうこともある。

私も、そう。

 

本当に、本当にだれも悪くないんだということが腑に落ちてしまったら最後

どうしようもなく

感情は溶けていく。

苦しいのもなくなっていく。

 

苦しくない、というのは

私にとってそれが正解なんだと思う。

 

出来事は起こる。

それはお天気のようにカラフルに起こる。

私は、雨が降ると不快に感じるけど

娘のひかりは

ビニール傘を伝う雨粒を

飽きることなく食い入るように見ている。

 

出来事は起こる。

その度に

わき起こる感情にのまれた後で

自分の見方を選びたい。

 

在りたい心のあり方を

選ぶ勇気を持っていたい。

 

 

すべてのメロンに感謝。

お向かいさんのおばあちゃんは

ひとり暮らし。

 

少し耳が遠くて

お話がとびとびで

なかなか内容がわかりにくいけれど

顔を合わせると、挨拶をして少しお話もします。

 

 

ひかりのこともとても可愛がってくれていて

 

ある時

「このまえ、赤ちゃんの髪の毛について

不安になられているご様子だったから

家庭の医学で調べてみたら

数ヶ月すれば生えてくるって書いてありましたからね、心配なさらないでね」

 

大きなメロンを持ってきてくれました。

 

 

これ食べて、元気出して、って。

 

 

私はたぶん

話の流れで

髪の毛が少ない子で〜なんて

軽く言ったのだと思います。

覚えていないんですけど。

 

それを気にしてくれたんだなぁ。

 

 

私とひかりは

たくさんの人に見守られていて

いろんなところから

いろんなものを頂きます。

 

赤ちゃんというのは

こうやって

たくさんの目に見守られて

大きくなっていくんだな。

 

私もきっとこれまで

こうやって

 

 

メロンをもらってきたんだな。

 

 

だって、自分でメロン買った記憶ほとんどないけど

なんかいつも、あたりまえに気軽にメロン食べてきたもの。

 

親や、親戚や、近所の人が

いつも私にメロンくれてたんですよね。

 

すごいことですよね。

 

これまでの人生で与えられてきたすべてのメロンに

心から感謝します。

ボイストレーニングのおもしろさ。

仕事に復帰しました。

 

これまで、娘を預かってもらってひとりでどこかへ遊びに行っても全然つまんなかったのに

仕事は楽しいです笑

まじめです笑

遊び方のセンスを磨こう。

 

さて

ひさしぶりに人の声を聴いて思ったことは

 

やっぱり、わかりやすく体感することって大事だなってことです。

 

あーこれかも!って言う時の生徒さんがいちばん生き生きしてます。

 

生徒さん自身が「これかも!」って体感があった声は

ほぼ間違いなく聴き手の私も「そうそれ!」っていう声です。

 

体感できたら

理屈や仕組み知らなくてもいいし

知りたければそれはそれで面白いけれど

 

理屈や仕組みを知る面白さだけで終わってしまうのはもったいないですよね。

私もそうなりがちです。

 

体感した時の全身の気持ちよさは

言語で理解する気持ちよさを

軽々と超えます。

 

だから

あんまり先に仕組みをお伝えしないようにして

わかりやすく単純に声が出て

生徒さんが自分の声にワクワクするような

そんなレッスンができると嬉しくなります。

 

だってみんな良い声出るし

良い声出ると、良い顔になるんです。

一緒にいるこちらもワクワクする^^

できる、って喜び。

やるだけやって

 

相手の反応や物事の結果についてはノータッチでいる方が

とても健康的に過ごせます。

 

ストレス感じる時ってだいたい受け身側になってしまってる時。

 

あの人がああ言った

こうしてくれなかった

仕事で叱られた、とか

環境が思った通りにならない、とか。

 

まぁ多少がっかりはしますけど

そのあたりの事って、自分の操作できないところだから

 

操作できないところをいつまでも考えていてもどうにもこうにも、なので

 

さて、次は何しようかな

 

って考えた方がいいなぁって思いました。

 

やるだけやったし、っていうふうに

自分は“やった”ってとこにもっと重点を置いて

自分で評価してもいいよね。

 

特に楽しいことやる時だけじゃなくて

お茶飲むにしても、歯磨きするにしても

“私がこれをやろうと思ってやっている”って

意識を持つと

自己評価慣れしてきます^^

今日もできたことたくさんあった!って。

 

娘を見ていると、すごくよくわかる。

能動的であることって、喜びなのね。

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ずいぶん長い間、誰かに褒められたり評価されたりすることの方が喜ばしいことだって思っていました。

能動的であることの目的も、最終的には誰かから評価されるためだったり。

 

でも

誰かに褒められたり評価されたりするのも、結局受け身側なんだよね。

 

受け身側にいる時の喜びって儚いから

もっともっと、ってどんどん欲しくなっちゃう。

もらえないと不安にもなるし。

 

だから今は

 

できた!やれた!ってことを

喜んで

結果については

神様うまくやってね、ってお願いしといて

さぁ私は今何しようかなって

そういうサイクルが心地よいし

結果、神様はほんとにうまくやってくれます。