toi.toi.toi.

I am a Singer

くるくる変わる。

ひとつに定まることなんて

たぶん一生ないんだ、と思ったら

 

やりたいように、起こるままに

任せたらいいかなぁ、と思った。

 

任せられない時があっても

それもまた、起こるまま。

 

今年に入って

『やるべきことなんてなんにもないや』って

すとん、と腑に落ちたら

 

洋服を買ったり

マッサージに行ったりする代わりに

 

ずっとやりたかった習い事に申し込んだりした。しかもふたつも!

 

なんで今までやらなかったのか不思議なくらいすんなりとやっている。

 

ほんとうに不思議だけど

ほんとうに自然。

 

それもこれもまた

あるがままなんだろうな。

 

 

やりたいことはこうして

時が来たら自然にすんなりと

やっていくのかもしれない。

 

飽きるほど生きようと思う。

 

強欲に。

私はどんな体験からも

 

貪欲に感じようとする自分に気がついた。

 

肉親の死や病でさえも

 

悲しむより嘆くより長く感じ入る。

 

なんのためでもなく

 

ただ、そこに

真実の想いや、自分の魂のようなものが

分かりやすく存在感を放つから

深く潜ってそこにタッチしたいのだ。

何をも介在しないそこに。

 

そこにタッチするとき

私は寸の間、天国を見る気がする。

 

 

自然であること。

事実と違うことを言う。

 

それを、嘘だというのなら

 

自分の気持ちを誰かに伝える時に

 

何かひとつにまとめようとした時点で

もう、嘘をはらんでしまいます。

 

 

 

まとめようともせず

わいてわいてわきあがってくる気持ちの

その先に

本心があって

 

 

でもその

わいてわいてわきあがってきた気持ちだって

私の大事な気持ちで

 

 

全部が、本当なのです。

 

 

本心とは違っていても。

 

 

わいてわいてわきあがってくる気持ちの

その先の

本心に辿り着いた時に

それはとても自然で

自分の内側が、晴れやかになる。

静かになる。

もしくは両手を上げて、わーい!と言いたくなる感じになる。

 

 

たくさんたくさん思っていることの中の、本心は

どれなのか

 

 

丁寧に時間をかける日々です。

 

 

晴耕雨読とかいって。

きゅーん

ずどーん

もやもや

ぎゅー

しんみり

わくわく

ぞわー

きゃー

わー

 

という日々。

 

とても愛おしく

穏やかな時間が多い年でした。

なにかあっても、なにもなくても

本当に、日々、楽しかった。

楽しめない日も、楽しかったです。

一緒に過ごした人たちと

心の中で思う人たちに

恵まれています。

 

晴耕雨読》は、たしか

自然の流れに逆らわず

晴れた日には畑を耕し

雨の日には読書をする、っていう

心穏やかな生活のことを指す四文字熟語だったかと

記憶しているのですが

 

逆に

晴れた日に、家の中にこもって本読んで

“ぐわー!無駄にしたー!”感も

雨の日に、急に耕したくなって夢中になってザクザクして

“うおー!意味なーい!”感も

 

それもまたなんか、いいなぁと

思ったりします。

人間らしくて。

 

 

どちらも

いいですよね。

 

 

写真は

ラブ甥っ子そうた6歳が

私とケンカした後で

仲直りのためにプレゼントしてくれた、彼の宝物である折り紙のお花と

 

冬季限定チョコも含め

いろいろ食べ回った結果

やっぱり一番好きな

チョコレート効果の72%。

 

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素晴らしい1年でした。

ありがとうございました。

ビリヤード台の上で。

想いを込める癖がある。

 

想いが熱すぎて濃すぎて

恥ずかしいから

逆に、ひた隠しにしてしまう時もある。

 

(それでも癖というものは

出てきてしまうし

たいてい、隠せていない。)

 

 

“引くわー ”という言葉は

私の辞書になく

 

「こんなこと言ったら引かれるかと思って」と言われて

 

「ばっちり受け止めて

むしろさらに押し返すよ」と

男らしい言葉が出て自分で驚いた。

でも本当のこと。

 

 

想いを込めて

引かれると悲しいし、恥ずかしい。

込めた通りに伝わらないことだって

勿論たくさんあるのだと思う。

 

それはきっと

相手の人生においての私の役割が

それだった、ということなんだろうと思う。

 

記憶にすら残らない、という役割の時もあるのだろうな。

背景の一部役とか時間調整役とか。

あ、あと

「あんなふうにはなりたくない」と思わせる役や

「あ、髪切りたい」と思わせる役とか。

いい役ばっかりは来ないよね 笑

 

途方もなく細かく繊細に折り重なって交わる役割と関わり方の中で

私が誰かにとってどんな役なのか

私には到底知りえないことで

そこに想いを馳せる時

自分がビリヤード台に乗っている気持ちになる。

 

自分が転がった先

どんな展開になっていくのかは

わからないから

 

私は今日も

想いを込めたり

するのみです。

 

 

 

上手くなくて、よかったこと。

ひとつ前の記事のくだりがあって

 

親友にLINEしました。

 

ふだん全然連絡取り合ったりしないので

半年ぶりとか

それ以上くらいです。

 

夜中だったにも関わらず

すぐに電話をくれました。

 

 

 

喋りました。

 

 

 

自分の気持ちをそのまま

どどどーーーっと喋りました。

 

 

 

何かを相談されるでも、するでもなく

何かを解決したいわけでもなく

 

もちろん、相手の心を読んで重ねて汲み取る必要もなく

 

仕事の話、お金の話、音楽の話、素数の話、男女の話、卵子凍結の話、、、もうなんかほんといろいろ。

 

 

なんでも喋れて

笑い飛ばせて

 

 

自分の話をしてたはずが

いつのまにか相手の話になって

相手の話の途中から私の話になって

そんなのどっちでもよいので、ただ笑って。

 

 

 

トイレ休憩、飲み物休憩、ドライヤー休憩を挟み

 

 

3時間。夜明け間近でした。

 

 

 

分析なし批評なしアドバイスなし励ましなし。

過剰な寄り添いもなし。

 

 

それは、話してる相手の気持ちも

自分の気持ちも

それが悲しみだろうが怒りだろうが

どうにかしようとする力が一切ない会話。

 

 

 

私は、自分の気持ちを話す時に

そのまま素直に出すことが

もともとは、上手くありません。

頭がたくさん回りだすからです。

 

 

頭が回り出しすぎて

口から出る言葉は流暢でも

ほんとうに心が感じていたことと

ずれてしまうこともあります。

 

 

素直になりたいと思って

練習しました。

昔よりは出来るようになりました。

それでも今でも

生まれながらにそれが出来る人みたいには

ならないのですが

 

 

 今は

上手くなくてよかったこともある、とも思います。

 

 

こうやって

そのままの想いを出せた時の喜びと

出させてくれる存在への『ありがとう』を

しっかり感じることができるからです。

 

 

 

友達は

少数精鋭が自慢です。

 

no title.

思い起こせば今年のはじめから

最近では毎日

 

対面やメールで

 

いろんな人の

相談に乗ったり

打ち明け話を聞いたり

愚痴を聞いたり

寄り添うことが続いたら

 

私の中で

 

さみしさがとっても大きくなりました。

 

 

人の話を心ごと聴き過ぎて

私の心を他の人の心に重ね過ぎた。

 

さみしさの大波の前に

イライラのさざ波は来てたんです。

はて?と感じていました。

鈍感すぎる。。。

 

 

『私の話は、私の気持ちは

いったい誰が聞いてくれるの!?』

 

 

っていうのは

私から私への言葉です。

 

 

 

無意識のうちに

流れるように

心ごと重ねてしまうのは

人間という動物の性なのか。

 

 

まずは私に寄り添おうと思います。